last update:1999/07/03  

となりの芝生


『鉄道員(ぽっぽや)』 広末涼子



 北海道の雪深いさびれた町のローカル線の終着駅で、二年前に亡くした妻と、わずか二か月で世を去り、生きていれば十七才だったはずの一人娘の面影を胸に抱き、鉄道員(ぽっぽや)としての人生をまっとうする駅長・佐藤。
 そんな彼の元に訪れた、一夜の夢物語…。
 吹雪の日に佐藤の前に現れた、生きていれば高校生であったはずの一人娘・雪子。この役を広末涼子が演じている。
 うがった見方をすれば、ヒロスエ目当ての客を見込んだ観客動員を考えた配役とも取れる。興業上の現実としての問題として、そう言うファクターもあることは否定できない。
 では、つまるところこの役は誰でも良かったのであろうか? 興業上の問題をクリア出来れば、例えば松本恵あたりにやらせても、まったく差し支えなかったのだろうか?
 それは間違いだ。
 この役は、女優・広末涼子でなければ、決して演じることが出来なかったと思う。

 広末涼子には、すばらしく天才的と言うべき点が一つある。
 それは、現在の芸能界において西田ひかるのような“優等生”ではなく、榎本可奈子のような“イマドキの女子高生”でもない“一般大衆がイメージする、ごく普通の女性としての理想像”を、自らの全てをもって体現してのけているということだ。
 失礼ながら広末涼子は、ルックス的には言うほど『可愛く』もないし『奇麗』でもない。
 雑誌の表紙を飾る彼女のショットを見て「ひどい写真写りだなあ」と感じたことが、私には幾度となくある。
 だが“魅力的”に見えたことは、それよりもはるかに多い。
 はっと目を引くような美しさも可愛さでもない所を、逆に「ごく普通の市井の人」と思わせる武器にしているのだ。
 そんな彼女は、ドラマや映画のような“完全に作られた世界”で、自らの持つ“理想像”としての魅力を、存分に私たちに見せてくれる。

 この『鉄道員』は、これまでの何十年という人生を生きてきた人たちの心の琴線に触れるような脚本・構成になっており(例えば乙松と雪子が出会うラストシーンは、原作とは若干ニュアンスを変えてある)、かつて大ヒットした映画『失楽園』以来の「大人を泣かせる」映画なのである。
 鉄道員(ぽっぽや)として己の生き方を通して来たために、結果として一人娘を、そして妻を亡くしたことに対して深い後悔の念を心の奥底に抱いたまま、定年を間近に迎えようとしていた、高倉健演じる佐藤乙松。
 彼が人生の最後に、成長した幻の自分の娘に出会うことによって、これまでの人生の中で抱いてきた深い後悔の念をすべて洗い流したのである。
 そんな、まるで神のような存在である幻の娘を演じるのは“一般大衆がイメージする、ごく普通の女性としての理想像”広末涼子でなくてはならなかった。
 彼女だからこそ、見ている大人たちの心をリアリティを持って揺さぶることが出来たのである。

 「お父さんありがとう。ユッコは幸せだったよ…」。

 ラストシーンにおいて広末涼子は、映画『鉄道員』の作られた世界を完成させる、ぴったりとしたとした形の最後の一片(ピース)となったのである。
 映画『20世紀ノスタルジア』を指揮した原将人をして「広末涼子は(広く多くの人たちの心を癒す存在の)菩薩である」と言わしめた理由が、これを見て私にもよく分かった。

 広末涼子は、これからもずっと『女性としての理想像』を、公に私にわたり演じ続けていくのであろう。
 この戦略には、識者からの批判的な声も多い。
 だが、私は「そう言った存在が、日本の芸能界に一人くらいはいてもいい」と思う。
 そもそも芸能人とは『選ばれし者が、多くの人たちに夢を見せる』存在なのだから。

[編集長/ブルーウェイブ] 




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