last update:1999/03/31

 四期生イレコミレビュー
寄合歩試論


BY 宰春藹

 「寄合歩さんは不思議な人だ」というのは、もはや周知の話。だが、単なる不思議少女(この言葉も相当くたびれてる)という水準でのみ捉えられてしまうのは、いささか疑問があるので、拙い文章を書かせていただいた。

 世に族生していた「不思議ちゃん」とは、結局のところ自分を不思議に見せかけようとする凡庸な内実の娘たちにすぎなかった。ここでは奇妙な言動はそれらの娘たちが身にまといたがる奇妙な服装と等価であり、自分の奇抜さを飾るものでしかない。だから、どれほどその言動が「不思議」であっても、その不思議さが深まることも、探求されることもない。
 そもそも、自分の個性を(たいがいは先行者のいる)服装ごときで表せると思うだけでも駄目であり、真実打ち壊しがたい個性とはそのようなものとは何の関連性も持たない。この、自分から自分へと循環する視線からは、世界と関わる緊張感は生まれてこない。これを端的に「退廃」というのである。もちろん、そういうものが好きな人は、それを愛すればよい。
 だが、我らが寄合歩さんは筋肉ムキムキで“みどりパワー”にあふれる人である(5月5日のステージより)。そして、寄合さんの不思議さとは、あのような自分を不思議に見せようとする娘たちのものとは逆の方向を向いている。そのベクトルは、絶えず外に向かって放たれているのだ。寄合さんは、われわれが自明のものと思いこんでいる世界のありようについて全身で不思議に思っているようなのだ。

  「スフィンクスってなんでもっとカワイクしなかったの?」

 オイディプス王も、裸足で逃げだす難問である。寄合さんにとっては世界の方が不思議なのであり、だからこそ「世界不思議発見!」なのだ。ただ、そのアプローチの水準があまりにも独自の位相にあるために、私たちの方もまた、寄合さんの言葉に面食らわざるをえないのだ。

  「あなたの方が不思議です」

 とはいえ、なお私の寄合さん評価は「面白い人」というレベルでとどまっていたが、7月12日の《ドン・ジョバンニ公演 =即!=》で、大規模な修正を加える必要が生じた。
 劇中、美香ちゃん演じるジョバンニに対する否定的な評価の文脈で、ジョバンニが帽子につけている羽根飾りについて触れるときに、寄合さんは「頭に変な羽根なんかつけちゃって…、いったいいつになったら飛べるんだろう」というセリフを放った。寄合さんのアドリブであろうが、いったいあのような状況でこんな言葉が生まれて来るものだろうか。
 普通「羽根なんかつけて、キザなやつだ」ぐらいがせいぜいだろう。これに比して、寄合さんの言葉は、人が羽根を装飾品としてつける意味を問うた、完全に正しい批判的疑問である。なぜ、空かける鳥の翼から羽根を奪い、それを自らの身におびるのか? いつか飛ぶために他ならないのだ。そして、それを忘れ、超越性とは無縁なただの飾りものとしてしか羽根を解釈できぬジョバンニに対する批判が、この言葉となって現れたのである。この正しさの前では、「キザなやつだ」という批判は、羽根を装飾のためにのみ見るジョバンニと実は同じ高さの視点にあり、善の水準としては絶望的に低い。悪の対立物としての善は、結局悪と同じ根を持っているものでしかない。
 だが、頽落した形態としての装飾品にとどまらぬとき、羽根飾りは人間にとって根元的な意味を持つのである。
    シラノ:  …だがなお気の毒だが、貴様たちにゃどうしたって奪りきれぬ佳いものを、
           俺(おれ)ゃあの世に持って行くのだ。
           それも今夜だ、俺の永遠の幸福で蒼空(あおぞら)の道、
           広々と掃き清め、神のふところに入る途すがら、
           はばかりながら皺一つ汚点(しみ)一つ附けずに持って行くのだ、
           他でもない、そりゃあ…
    ロクサアヌ: それは?
    シラノ:   私の羽根飾(こころいき)だ。
エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』 訳:辰野隆・鈴木信太郎  

 無茶苦茶なルビの振り方であるが、しかしこのルビと漢字との関係が正しいことに、私は寄合さんのおかげで気付くことができた。あの言葉を聞いたとき、俺の魂は3メートルほど上昇したよ。
 寄合さんは、8月30日の《スーパージャム》で、寿隊をやりたいと言った。
 やるべきだと思う。寄合さんが歌う『鳩よ!者へ苦さを』を聞いてみたいのだ。

   ♪ 私さ ゆっくり 飛ぶの大好きでして
     私を どっちの 風が吹かれたいんです

 てにおはが滅茶苦茶で、主体と対象を結ぶ動詞のつき刺さり方が変な方向を向いているために、自分と世界の関係性が溶解し出すあの詞。耳あたりがいいために身体的に同調しながら聞きとばしていたその意味を把握した瞬間に、吐き気に近い不快感(=快美感)に襲われたが、まるで DOORSの『STRANGE DAYS』を聞きながらディックの『火星のタイム・スリップ』を読んだようなバッド・トリップだった。
 この言葉の逸脱は、私と世界のみならず、私とその認識の対象となる「私」の関係をも散乱させてしまう。「わたしはわたしである」「AはAである」、このAとあのAを結ぶイコールの平行線をも、この槍は斜めに横切っている。

 だから冒頭の、

   ♪ 私よ みんなも 誰か私かでして
     私も 前から一度 見つけたいんです

も、数多ある啓蒙ソングの「自分探し」の枠組みから大きくはみだしているといえる。
 しかも、特筆すべきは、ほとんど前衛文学並みのこの歌詞を、断固として耳あたりのいいアイドルポップスの水準で完成させた、羽毛田丈史であったが。そして、私見を交えれば、鈴之助氏の詞と羽毛田氏の曲に絡んだときに爆発的な視覚的イメージを付与することができたのが、「望月菜々」という人であったのだ(彼女が把握力と総合的な表現力に優れていたことは、言うまでもないだろう)。
 この曲の全体像がおぼろげながらつかめたときに、異質の知性のぶつかり合いにしばらくぞっとしていたことを覚えている。しかし、今いない人はともかく、寄合さんがあの詞をどのように内に取り込み、把握し、解釈し直し、我々に向かって表出しうるのか(それは「歌唱力」という水準では測ることができない)が、私の頭を占めていることである。

 そう、あの名前を出したのは伏線、俺は7月12日以来、寄合さんを寿隊の次期隊長に擬(ぎ)している。実力的には、未だ発展途上であることを認めつつ、潜在能力的にはとりわけその表現力において四期生中最大のものを持っていると思うのだ。ひょっとすると
“あの寿隊”に比肩しうる寿隊が見られるのではないか?」という期待は抑えることができそうにない。
 いま一度、『クジラは海の王様』で海を見ることができるだろうか? そのときには、躊躇なく寄合さんの言葉に足をかけて飛ぶつもりでいる。


寄合歩
撮影/山野麦文 



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